一人暮らし初日の恐怖体験が私を大人にしてくれた件

 

四国の田舎に生まれ田舎に育った私にとって、東京は日本の象徴だった。

男は黙って東京だろう。男イコール東京。むしろ東京が男だ。そうに違いない。ああ東京に行きたい。ただただ東京にいきたい、無性に東京にいきたい、東京に悶えたい。

東京への情熱だけで飯3杯いける、私はそんな男だった。

東京への狂気的な情熱だけで受験勉強の集中力を維持することができたし、成績も向上させることができた。でも残念ながら、自分が目指していた東京の大学に行くための偏差値には届かなかった。

そこで一計を案じ、お隣の山梨県の大学を受験することになった。もちろん東京に近いという理由で。

東京人からすればアホかと思うかもしれないが、当時の私は田舎者すぎたため、山梨は東京の隣、もはや東京レベルに近いんじゃないか、という幸せな勘違いをしていた。

天気予報でも関東甲信越って一括されているしね。まあ似たようなもんだろう、ニア・ザ・トーキョーだし。関東地方の地図に山梨だけ載っていることあるし。

 

そして受験のため、人生で初めて山梨へ行くことになった。

東京の新宿駅から特急電車に乗って山梨へ向かう車中。もはや駅というより巨大なジャングルかのように思えた新宿駅。そこから電車は出発し、巨大ビルが並ぶ街並みを超えて、トンネルを抜ける。

高尾、立川、八王子、この辺りで異変に気付く。おや?おかしい、いつも地元で見ているような、見慣れたのどかな景色が広がっていく…。

そして、あるトンネルを抜けた瞬間、一気に雪景色が広がった。想像以上の別世界、いわゆる白銀の世界だった。東京ライフの夢は木っ端みじんに砕け散り、若干心が折れてしまい、気づけば受験が終わっていた(放心状態だったので受験の時の記憶があまりない)。

そしてなぜだか無事に合格してしまった。

合格後、逆にへこんでいる僕をみてオカンが気を使い「別に進学せんでもええよ」と言ってくれたが、さすがにそこまで勝手はできない。

そもそも田舎暮らしには慣れていたため不自由なく過ごすことができたし、結果的に山梨の大学時代の思い出は素晴らしいものだった。

しかし、山梨に着いた初日の出来事は、今でも強烈に覚えている。

 

実家から引っ越し業者に荷物を搬送してもらい、翌日に山梨の引っ越し先で引き取ることになっていた。私は業者へ荷物を依頼後、山梨へ移動し、甲府駅前のホテルで一泊した。

ホテルは駅前のロータリーの目の前にあった。ホテルの部屋は昔ながらの鍵穴式のホテルで、オートロックもついていない。入口のドアは少し足元に空間があって通路を通る人の声や音が漏れて聞こえてきた。

まあ贅沢は言えない、寝る分にはそれほど問題がないため、早々に就寝した。

しかしその後、私の安眠は早々に砕かれることになった。

 

深夜0時ごろだったかと思う。ふと人の声が聞こえてきて目が覚めた。

隣の宿泊客の声だと思われるのだが、なんだか穏やかではない。

それは女性の声だった。

廊下でしゃべっているのかと思うくらいクリアな声が聞こえてくる。

その声はもはや泣き叫んでいるようだった。よくよく耳をそばだてて内容を聞いてみる。

 

「どうしてなのよ!どうしてなのよ!お願いだからっ!なんでそういうことするのっ!」

 

どうも怒っているようだが、その怒号は単なるケンカのレベルを超えていた。金切声が絶え間なく続いている。怖い…。旦那と奥さんのケンカかな…。こんなにオープンにケンカするものなの?山梨ってすげぇな…。と思っていたら、さらに聞き捨てならない内容が聞こえてきた。

 

「やめてやめてやめて!ぶたないで!ぶたないで!お願いだからぶたないで!ぶたないでぶたないでぶたねいでぶたぶたぶたっ!」

 

ひょええええ!?

女性の声は半泣き状態である。恐怖で体が凍る。

家庭内暴力?ホテルで?

よく事情が呑み込めないが、やばいとこに来たっぽい。

いや、どうすればいいのよ?え?助けに行った方がいいの?相手が誰だとしてももやしの俺が勝てる気はしない。

ホテルの従業員に報告したほうがいいだろうか。

でも電話で声を発するのも嫌だしフロントにいくために廊下に出るのもイヤだし、何よりこの部屋に自分が泊まっていることを気づかれたくない。

 

色々な葛藤が頭の中をめぐる。隣からは相変わらず甲高い声が響いてくる。

もうこっちがノイローゼになりそうだ。しかし騒動がやむ気配はない。

そこでとうとう私は行動を起こしたのだった。

恐怖に打ち勝つために。

待っていても仕方がない。やられる前にやってやる。やるしか…ない!!

闘争心が私を駆り立てた。トラだ、トラになるのだ!張り子のな!!

 

私は物音を立てないように気を配りながらベッドから起き上がった。変な音を立てるとこちらの気配を悟られるかもしれない。細心の注意を払って音を消す。

そして、人生史上最高の忍び足で自分の部屋のドアにむかった。

一歩、二歩とゆっくりと足を進める。微塵も足音が出ないように気を使いながら。

ゆっくり動き過ぎて部屋のドアが遠い。

歩き始めること約10分。ようやく部屋のドアの前にたどり着いた。

私はドアに手を掛け、とうとう計画を実行に移したのである。

そう、意を決して

 

「そっと内鍵を閉めた」

 

のだ。

 

やられる前にやってやったぜ!カチッとな!!

ん?

いやだって、怖いじゃん?

防衛本能だよこれは!自分の身が大事だわ!

ふざけんじゃないよ!

戦うとかね、無理だから!

怖いから!

そもそもトラよりもウシ派なんですよね!!

 

その30分後には騒動も収まり、さっきまでの騒音が嘘のようにシーンと静まり返っていた。とうとう起きてはいけないことが起きたのだろうか…。怖いよ。とにかく明日の朝まで乗り切ろう。マジで。もう何もおきないでほしい。

 

やっとウトウトしてきた所で、今度はホテル前のロータリーから、耳をつんざくようなバイクの爆音が聞こえてきた。

ギュッと耳をふさいでも聞こえてくるほどの凄まじい爆音だ。

ブンブンブブンブンパキョンキョンブブンパーポーパラー…、窓から外を見ると、暴走族がロータリーをぐるぐる回っている。すごい人数で。

マジでもう何なの?暴走族のバイク音がこんなに近い場所ある?色々とこのホテル大丈夫なのか。そもそも窓が薄すぎる。

 

私の人生において、この時の音を超える爆音はいまだに現れていない。

 

これら初日の恐怖体験のせいで、しばらくは隣室におびえて過ごすことになってしまったが、以後隣の部屋から悲鳴が聞こえてくることもなかったし、暴走族に囲まれることもなかった。

この日の経験に比べれば、住居の隣が墓地で時々変な音が聞こえるなんて、取るに足らない些末なことだと思えた。

そう、あの経験が私を強くしてくれたのだった。

だから、一人暮らしの始まりは深く掘り下がっていた方が、後は上がっていくだけなので楽なのかもしれない。いつだってあの時よりはマシだと思える。

そういう意味で、自分をあえて追い込んでみるのも悪くないんじゃないかと思う。そうやって自分に言い聞かせているし、今も人生の坂道は繰り返されている。

この坂道を繰り返した分だけ、自分を形作るパーツが増える。

それが大人になるということなんじゃないか。

 

私にとって一人暮らしはその坂道の入り口だった。